vol120「八王子道から東海道へ」9.茅ヶ崎駅から平塚駅(間の宿南湖) 


Vol.120 2013.02.23
「八王子道から東海道へ」9.茅ヶ崎駅から平塚駅(間の宿南湖)
「八王子道から東海道へ」
昨年2012年1月にスタートし、相模原から東海道を箱根までの「フィールドワーク」を続けています。
相模原市立博物館 民俗調査会B班より
今回は9回目、前回に続き、東海道は藤沢宿と平塚宿の間の茅ヶ崎の続編です。
■間の宿 宿と宿の間にある村を「間の宿」と呼び、神奈川では茅ヶ崎の南湖と二宮の梅沢があった。
■東海道
江戸幕府は慶長9年(1604)から東海道の整備に取り掛かり、並木の植樹と一里塚の構築を命じた。
江戸時代の茅ヶ崎は文化3年(1806)に幕府作成の「東海道分間延絵図」を見ると、沿線に菱沼村、小和田村、茅ヶ崎村、下町屋村、今宿村、中島村があり、牡丹餅立場、一里塚、南湖立場、姥島などが描かれている。
東海道の道幅は、旧小和田村付近で約11m、南湖立場付近で約7m、相模川付近が一番狭く約6mであったという。
■本日のコース
集合 JR茅ヶ崎駅 9:30
①厳島神社
第六天神社
③二十三夜堂跡

④金剛院
⑤御霊神社
⑥西運寺
⑦南湖の左富士碑
昼食タイム
⑧弁慶塚
⑨鶴嶺八幡宮参道と松並木
⑩鶴嶺八幡宮

⑪龍前院
⑫梅雲寺
⑬神明神社
⑭旧相模川橋脚

⑮丁髷塚
解散 JR平塚駅 
 
vol120地図別ウインドウ 
         

東海道本線・鳥井戸踏切(茅ヶ崎市南湖1-3)を渡り、

国道1号線へ、鳥井戸橋(千の川)に出ました。安藤広重の浮世絵「南湖の松原左富士はこの辺りから。

①厳島神社 妙音弁財天像
弁財天は別称弁天さま、妙音弁財天、美音弁財天といわれ、技芸上達の功徳を持つ水の神として、世に知られています。昭和56年11月除幕式を行った。(妙音弁財天像建立記念碑より)

①厳島神社 裸弁天(年代不詳)
境内の片隅に風化の進んだ裸弁天がたたずんでいました。
風化した弁天さまの優しいお姿、涼しげな眼差し、そしてなまめかしく、皆で見入ってしまいました


①厳島神社茅ヶ崎市新栄町2-10) 裸弁天(年代不詳)
左欄の裸弁天さま、あまりの魅力に、失礼して、弁天さまの後姿を撮影させていただきました。癒されます。

②第六天神社 梅がほころぶ境内
分布の傾向に特徴あり、西日本には皆無に近く、東京都と千葉県に多く所在し、神奈川県では二神社、全国で「祠」ようの社も含め三百有余社が数えられます。
神々の中では、初めて人間のような容姿と賢い知恵を持ち合わせた大神様です。(境内御由緒案内板より)

②第六天神社
左:相対道祖神 光背型 有冠袖中合掌 添立型 文政三辰正月吉日(1820)
中:庚申塔 三猿 元禄二巳巳霜月吉祥日(1689)
前面に一匹、その他の2匹の猿は両側にいました。
右:庚申塔 日月三猿 延宝五丁巳季十二月吉祥日(1677)

②第六天神社
(茅ヶ崎市十間坂三丁目17番18号)
落とされた地蔵の頭は、すべて石が載せられ、石にはユーモラスな目鼻が描かれています。温かい思いやりが感じられます。

③二十三夜堂跡(南湖入口の交差点の北側、富士見橋の手前の空き地)
勢至菩薩 宝暦七年(1757)
二十三夜御本尊大勢至□□
③二十三夜堂跡
■二十三夜塔
18世紀の後半から昭和の初期にかけ、日本の各地で「講」を組織した人々があつまり、月を信仰の対象として精進、勤行し飲食を共にしながら月の出を待つ、月待ちの行事をした。供養のしるしとして建てた石碑(月待塔)のひとつが二十三夜塔である。

■崇拝の対象
十三夜:虚空蔵菩薩
十五夜:大日如来
十七夜から二十二夜:観音様
二十三夜:勢至菩薩
を本尊として祀った。
■勢至菩薩
月は勢至菩薩の化身であると信じられていたことから、二十三夜講が最も一般的で全国に広まった。

④金剛院
左:帝釈天像
右:青面金剛像(六臂)
三猿 宝暦九巳卯天正月十五日(1759)
■帝釈天 梵天とともに仏法守護の主神とされている。多くは庚申塔の主尊として造立されている。剣をとる立像が多く千葉県、東京都、神奈川県などに分布するが、ほとんどが庚申信仰のものである。

④金剛院
・江戸初期より南湖の閻魔寺として賑った。
・明治6年(1873)茅ヶ崎村最初の小学校「琢章学舎」が開校され、戸長役場や警察の駐在所、明治22年に茅ヶ崎村役場が開かれた。
・明治31年(1898)東海道線の茅ヶ崎駅が出来てからは、賑いは駅近くに移った。

⑤御霊神社(南湖2-9-10)旧茅ヶ崎村
御霊神社の由緒
御祭神 鎌倉権五平景政
御祭神 九朗判官 源義経

御霊信仰とは、厄災の発生や悲業の死を遂げた人の怨霊を鎮めて、人々の平穏と繁栄を実現しようとする信仰である。

⑤御霊神社 毘沙門堂
建久九年(1198)鎌倉幕府初代将軍源頼朝一行が、相模川の橋供養の帰路、悲業の死を遂げた弟の源義経の亡霊が現れ、驚きの余り落馬しそれが原因で翌年死去したとされている。里人たちはその怨霊を鎮めるため、源義経の霊をこの毘沙門堂に合祀したとも伝えられる。(境内案内板より)

⑥西運寺(御霊山浄祥院) 浄土宗西光寺末(南湖2-9-34)旧茅ヶ崎村
「南湖のお十夜の寺」として知られている。

おびただしい数の無縁仏が集められています。
無縁となった仏たち、現代の姿でしょうか。

⑦南湖の左富士碑
浮世絵師安藤広重は天保三年(1832)に東海道を旅し、東海道五十三次の風景版画を発表した。その中の一枚に南湖の松原左富士がある。
東海道の鳥井戸橋を渡って、下町屋の家並の見える場所の街道風景を写し、絵の左側に富士を描いている。
右欄へ→


⑦南湖の左富士碑 →左欄より
東海道のうちで、左手に富士山を見る場所は、ここと吉原(静岡県)の二か所が有名。昔から茅ヶ崎名所の一つとして南湖の左富士が巷間に知られている。
現地案内板より

本日は富士山を見ることはできませんでした。残念でした。

⑨鶴嶺八幡宮参道と松並木
鳥井戸橋から鶴嶺八幡宮への長い長い参道を歩きました。
江戸時代初期、常光院の僧朝恵が、荒廃した鶴嶺八幡宮の復興を志社殿を再興した。慶安2年(1649)三代将軍家光から七石の朱印を得たことを記念して、南大門馬場420間(約760m)の左右に松を植えた。
参道は市史跡、松並木は市天然記念物に指定されている。

歩道いっぱいに根を張る松並木。松の木をよけながら人が歩く。
松の木を大切にした参道でした。


⑧弁慶塚
建久九年(1198)、武蔵国稲毛の領主、稲毛三郎重成が相模川に橋を架け、落成供養を行った。源頼朝はこの式に参列、その帰途鶴嶺八幡宮付近にさしかかったとき、義経・行家ら一族の亡霊があらわれ、乗馬が棒立ちになり、頼朝は落馬重傷を負い、翌正治元年一月に死去した。里人たちが義経一族の霊を慰めるため、ここに弁慶塚を造ったと伝えられている。
現地案内板より

⑩鶴嶺八幡宮 浜之郷482
御祭神:応神天皇・仁徳天皇・佐塚大神・菅原道真
相模国茅ヶ崎の総社として往古より八幡信仰の本地として名高い。康平年間(1028~1065)源頼義が東征の際、石清水八幡宮にならい本郡懐島郷矢畑村本社に一社を創立し、後に源家が現地に奉還したという。更に治承年間(1177~ 1181)に源頼朝が鎌倉由比郷に遷したが、その旧社は存続し本社八幡と称したものと伝えられている。
現地案内板より

⑪龍前院 浜之郷358 
庚申塔:日月三猿 千時明歴三丁酉年吉祥日 相州高座郡懐島村浜之郷 施主敬白 人名10 (1657)

■龍前院の庚申塔
整然と並ぶこれらの石造仏の多くは江戸時代に造られたものであり、長くこの地域の人々の心の支えになってきました。

中央の石像は三猿を彫った庚申塔としては初期のもので、市内に八基見つかっている。同様な形の庚申塔の中ではこの塔が最も古いもので、明歴三年(1657)の年号がきざまれ、また基部には造立者十人の名が刻まれています。初期三猿像の庚申塔として貴重なものであるため、市の重要文化財に指定されている。現地案内板より
庚申塔の特徴(月日三猿)から区分の際には、当庚申塔から、「龍前寺型」と命名されている。

⑪龍前院 大日如来像:
慶元丑九月吉日 越後国頭城郡米山腰猿下村 藤助 娘 施主瑞雲尼首座

⑪龍前院 地蔵尊像:
天保二卯年十一月吉日辛卯(1831)
かわいい子供を膝にのせています、
お顔の表情もゆったりと、

⑪龍前院 五輪塔十基
供養塔の一つ、下から地・水・火・風・空の五輪から成っている。宇宙はこの五つの要素からできているという仏教の思想に基づいている。鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけて造られたと考えられる。比較的大型の五輪塔が10基まとまってある例は珍しく、大きさも市内で、最大のものである。案内板より

⑫梅雲寺 馬頭観音
三面六臂 享和三歳亥八月吉日 願主講中 世話人政五郎 八十八 三平 徳平衛(1803)

⑫梅雲寺 念仏供養塔
寛永元年(1624)
市内の石造物の中で最も古い

⑬神明神社(神明大神) 旧下町屋村
厄神碑 笠字 厄神大権現 嘉永二巳酉歳正月吉祥 下太平 国土安寧 当村氏子中 世話人五人(1849)
 

⑬神明神社
聖観音菩薩:浮彫立像 文化十三年往(1816)
道祖神:光双 明和七庚正月十四日(1770) 道祖神 下町屋村 羽口三郎右衛門 □沢右衛門

相模国高座郡は十三郷一駅からなりたつ、その内茅ヶ崎地域は、大庭 渭堤 河會の三郷なり、当下町屋は河會郷に属す案内板より

⑭旧相模川橋脚 国指定史跡
(茅ヶ崎市下町屋1丁目)
■頼朝が渡った橋の跡
当遺跡は、沼田頼輔により建久9年(1198)源頼朝の家臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋と考証されている。

歴史書「吾妻鏡」には、頼朝がこの橋の渡り初めをしたこと、帰途落馬し、その後まもなく亡くなったことなどが記録されています。旧相模川橋脚はこうした歴史をもった遺跡であると考えられています。(現地説明板より)

⑭旧相模川橋脚
この辺りは長い間水田であったが、大正12年(1923)9月1日と翌13年1月15日の関東大震災によって、突然、地中から木柱が地上に姿を現わし、人々を驚かせた。
橋脚はいずれもヒノキの丸材、全国でも数少ない大橋であったと考えられる。

⑮丁髷塚
むかし相模国府祭の日の夕暮、東海道を帰還途中の一之宮寒川神社の神輿を担ぐ若者たちと平塚八幡宮の神輿を担ぐ馬入村の若者たちが、喧嘩を起し、双方にたくさんの怪我人を出したが、馬入村の若者たちは、代官江川太郎左衛門の取り調べを受けることになり、下手人16名は打首の判決を受けたが、処刑の日、代官はその丁髷だけを斬り落とし、打首に代えた。罪を憎んで人を憎まぬ名代官の名処置案内板より
■手の感覚がマヒするほどに、とにかく寒い日でしたが、
咲き始めた梅に励まされながら、東海道の昔を堪能しました。
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