vol.69「甲州道中歩き」津久井地区(相模湖駅から藤野駅)編


Vol.69 2008.10.19
vol.69「甲州道中歩き」津久井地区(相模湖駅から藤野駅)編
 相模原市津久井地区(相模湖駅から藤野駅まで)を甲州道中の古道に沿って歩きました。

■旧甲州街道
 徳川幕府が整備した五街道のひとつ。
 江戸日本橋を基点に、信濃の下諏訪宿まで45宿・約211km.に及ぶ。
江戸城に万が一の事態があった時には、甲府城を幕府の拠点にするための重要な軍用路だったといわれ、その中の宿のうち、小原宿・与瀬宿・吉野宿・関野宿を通称相州四ヶ宿といっています。


甲州道中    マップ

相模湖駅
今日の行程 相模湖駅⇒@慈眼寺・与瀬神社⇒A横道の秋葉神社⇒B子の入の馬頭観音C浄光寺⇒D観福寺⇒E吉野宿ふじ屋⇒F吉野橋(小猿橋)⇒G藤野一里塚⇒藤野駅解散

@慈眼寺・与瀬神社
私達がいるのは、中央高速道路の上です
左が与瀬神社右が金峰山慈眼寺山の左手には広大な墓地が広がる

@慈眼寺・与瀬神社
手前の敷地は中央高速道路建設のため分断されてしまった。
■昭和43年12月20日に開通した眼下の中央高速道路建設のため、この地点にあった与瀬神社赤鳥居、慈眼寺の鐘楼を現在地に移し、別個にあった参道を併せて、この高架横断橋になった。
記念碑より転載

@慈眼寺・与瀬神社にて

@慈眼寺・与瀬神社
旧鳥居の基礎?らしきを見つける
現在のものよりずっと太い

例祭4月13日にはこの階段を神輿が下り、登って帰る。Vol.58 2008.04.12「祭り・行事編」与瀬神社例大祭 神輿渡御

甲州道中古道を歩く

甲州道中古道を歩く

甲州道中古道を歩く
相模湖を眺めながら

A横道の秋葉神社
火伏せの神として信仰されたもの、アキヤさんなどと呼んでいる。
竹製の鳥居は珍しい、初めてお目にかかりました。

A横道の秋葉神社
甲州街道秋葉神社の標識

A横道の秋葉神社
かわいいお地蔵様
ここから100m.程山を登ったところに神社が有るそうです、参加者の誰も行ったことは無いようでした。

立派な二十三夜塔

この辺りに
明治初年廃寺となった補陀洛山福寿院があったそうです。

B子の入の馬頭観音
人家のわき道を山に向かって入ると大きな馬頭観音がありました。

公用の人たちの講である事から、
大きな石塔を立てる力があったと思われる。

B子の入の馬頭観音
文字を判読すると
正面:馬頭観世音菩薩(馬頭尊)
台座:四ヶ宿待講中(お日待講太陽)
側面:一月二十右八日(不明)
文化丑年(文化2年12月28日)

B子の入の馬頭観音
高さ:86
巾:33
奥:28

C浄光寺

C浄光寺
吉祥山浄光寺

宗派:臨済宗建長寺派
(藤野町吉野1584番地)

C浄光寺
薬師堂の扉越しに撮影しました。
多数の寺宝が納められている。

C浄光寺境内にて
十王 石像坐像 作者年代不詳
あの世での裁判が始まっています。
後ろ手に縛られた罪人が裁判官に裁かれているようです。
緊張感が漂う空間。
こんな石像は始めて見ました。

C浄光寺
十王 石像坐像 

C浄光寺
十王 石像坐像 
閻魔大王 像高40cm 一体
十王像 像高35cm 十体

邪鬼像 像高18p 一体
その他不明斧石像四体と計十六体、閻魔堂内にあったものを、本堂前に配列されている。

ここは中央自動車道路
甲州道中古道を訪ねて、中央自動車道を何度も横断しました。

この道路建設によって、地域の様子が一変したことが、よくよく感じられる行程でした。

ここは赤坂
昔は赤い石が敷かれていた事から、赤坂という地名が付いたそうです。

現在赤石も何もなくなっていますが、
昔はこんな道を人々は歩いたのだろうか?

D御嶽山観福寺高野山真言宗
(藤野町吉野753番地)
山号は、大和の国吉野の大峰山(御嶽山)に因んでいることから、吉野の地名と発祥が同じであり、きわめて古い由緒有る寺だそうです。(千年以上の昔)
津久井33箇所霊場の21番の札所ななっている。

E吉野宿
吉野本陣跡
現在の代の家人のお屋敷
この敷地に五層楼があった、
ご当主様に行幸の際の莫大な費用の苦労話などのお話をうかがいました、お忙しいなか、有難うございました。

吉野本陣五層楼(案内看板写真より)
明治の時代ここに五階建て建築が!!

E吉野宿
大きな土蔵だけが大火から免れ、現在も保存されている。
壁の材質に火災を免れた訳が有るらしい。
■吉野本陣
 藤野町238番地吉野家は、江戸時代甲州街道吉野宿本陣・名主であり、現在でも屋号を「本陣」と呼びます。吉野家の由緒は弘安年間に遡り、承久の乱(1221年)の時、一族は天皇方に従い、宇治勢田で北条義時を討ったが戦に敗れ、故郷を去りこの地に住み着きました。
 江戸時代に関東五街道制定と共に参勤交替の大名宿伯のため、街道宿駅名主の家を本陣に定め、道中奉行の統制のもと公用人馬の中継ぎを行わせていた。右欄へ
続く⇒ 
⇒左欄より続き
江戸時代末期の本陣は、木造五階建ての偉容を誇り、明治12年明治天皇行幸の際は行在所となり、陛下はこの一階で昼食をされたとのことであります。
 建物は明治29年暮の大火で焼失したが、当時侍従であった神奈川県令書と天皇御出達直後の写真が今も保存されております。

昭和61年2月
藤野町教育委員会看板より転載

E吉野宿ふじ屋
藤野町には太古より人々が住んでいた遺跡や資料を残されている。
郷土資料館「ふじや」平成3年6月

F吉野橋(小猿橋)この橋の下辺り
現在は痕跡すらない、甲州街道吉野端、沢井川に掛けられた橋。丁度現在の10号線、吉野橋付近にあったらしい。
幾つもの文献や絵なども残されている。

相模原市立藤野中学校
昨年(2007年)3月11日より藤野町は相模原市となった。

G藤野一里塚
小渕地区藤野、国道20号線沿い、藤野駅から東に3,400メートル、街道の南側にある、樹齢数百年、
甲州道一里塚の「榎」として現存する名木の一つ。
G藤野一里塚
■一里塚
甲州街道(道中)は江戸日本橋を起点として、下諏訪に至る45宿里程で55里(220km)であるが、その成立時期に着いては定説は無い。慶長16年甲州道中は、全線にわたり、一応成立したと推論している。
この道中に一里ごとの目印として木を植えた塚があるが、制度として確立したのは、慶長9年徳川家康が秀忠に命じて、主要街道に築かせてからである。塚には「榎」を植えることが多い。

藤野駅に着きました、よかった〜〜
■吉野宿
 甲州街道江戸内藤新宿から16番目の宿駅で、山梨県甲府との中間に位置する。相模国風土記稿によれば「與志乃志久」と書き、元禄の改に吉野村とかかせしという。

■暑くなく、寒くなく、秋日和です、
12時相模湖駅集合4時ごろ解散の予定であり、体力的にも手ごろと臨みました。
しかし、内容は興味ぎっしり、行程はアップダウンあり、疲れた〜〜。
企画とお世話いただいた皆様、有難うございました。
vol.69「甲州道中歩き
」終わり
ホームヘ